昭和44年8月26日  朝の御理解 ●⑥    大坪かよこ

御理解第81節
 氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうヘおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。




 安心という言葉がいくつも使ってございますね。宗教の悟りと申しますか、究極のところは安心のおかげを頂くということにあるのです。
ね、仏教ではそこを安心立命というふうにいってあるですね。
教祖は、神徳を受ければ心配はないと仰る。神徳を受ければ心配はない、ということは安心だという。
そこで私どもが、安心しておりますという安心、安心してはならぬぞと仰る、安心してはならないところに、安心しておるような安心じゃなかろうかと思うですね。
十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞと仰る。
ところがなら、私達はおかげを頂い、段々信心させて頂いて、ま、いろいろの事が体験を通して分からせてもろうて、まあ、安心しとるといい、また、安心しとりますと思うとります。
けれどもその安心というものを良く確かめて見ると、安心してはならぬぞとここに言うておられる、安心してはならないところに安心しておるるのじゃなかろうかと。
ね、十里のを登り切って向こうヘ降りたら、それで安心じゃ、ね、それで安心じゃと。
ね、この安心が本当のものなんだ。
字は同じであっても、言葉は同じであっても、大変な違いになってくるんですよ。
安心してはならんぞと言うておられるところへ、私共は安心しておる。
安心と向こうヘ降りたら安心じゃと言うておられる、向こうヘ降りたらというところ、安心じゃ。
ね、ですからその、向こうヘ降りたら安心じゃといわれる安心を目指さなければならない。
・・・・・・?身に神徳を受ければ心配はないと仰る、結局はやはり、御神徳を受けることに精進させてもらう、それとてもです、気を緩めるとすぐに後へもどるぞとこう言うておられます。
神徳を受けておるから、もう、なら、大安心ということはない。
ね、それでもやはり油断は出来ない。ね、ここんところが私、教祖様の信心の素晴らしいところだと思う。ね、気を緩めるとすぐへ後にもどるぞ、と。
向こうヘ降りたら安心じゃと。
これは例えばお釈迦様の悟りとでも申しましょうかね。
仏教的悟りと申しましょうかね。向こうヘ降りたら安心じゃ、というところに、その、安心を見て、気を緩めるとすぐへ後にもどるぞと、その後に戻ったところも、でも、安心じゃというふうに仏教では、悟っておられるようですね。
●⑥ ね、親鸞上人様と三代吉という人の話の中に出てまいりますね、お説教話の中に。
毎日毎日、上人様のお話しを聞きにみえる。
だから、話を聞くばかりが能ではない、うちでまあ、一生懸命ご用することも信心ぞと、いう意味のことを言うておられます。
それに対して三代吉さんが答えておりますことはね、「落ちるこのみは十八願のうちと思えば危なげはなし」というふうに答えております。
ね、お話しを聞くばっかりで、おかげをとんと落としてしまうような事があっちゃならんぞと、ところが落ちたその先とても、いうならば、如来様の懐の中だとこういうのでしょうね。
その中にはです、たとえばおかげを落とすということは、なら、極楽にいっとるかとおもうとまた、まっさかさまに地獄に落ちるというような事にんってはならんぞと、言うておられるのに対して、その地獄とても、あなたの懐の中だと思やぁ、危なげはないと言うとられる、言うとるね、だから教祖はそれは詰まらんとこう言うておられる。
ね、油断をすると、また後へもどるぞ。
ね、仏教の悟りは、これは、その、私は今日、ここんところを頂いて、教祖の信心のその深さに触れた気がするんですけれども、私も大体そう思うておった。
ね、落ちるこの身は十八願というのは、まぁお道流でいうなら、天地の親神様という意味でしょう。
ね、その天地の親神様、ま、細かく分けるとね、十八の願いを持っておられる、ね、人間が幸せになっていく為には、あああって欲しい、こうもあって欲しいという、その神の願い、神の悲願なんです。
ね、それを仏教では十八に分けてある。
私よく知りませんけど、まぁそんなことらしいんです。
ね、ですから、その十八願の中にあるのだから、落ちて、たとえ落ちるその身は、その地獄であってもそことても、やはり神の懐だと。神様、この仏の十八如来様の願いの中にあるのだとこういう。
だから、素晴らしい悟りですけれどもです、なら、はたしてそれでいいだろうかということですよ。
せっかく、ね、辛苦して極楽を、の道を分かり、極楽にまぁ、往生しておるものが、ちょっと油断したばっかりにまた、まっさかさまに地獄に逆戻りしなければならんなんて、詰まらん話じゃない、ね。
その地獄とか極楽と言うても、なら、この世に地獄があるんだ、極楽があるんだというふうにも解かれておりますが、この世で段々、信心の徳を受けて極楽のおかげを頂いておっても、油断をすると後へもどってしまうぞ、そこへ教祖の一生が修行じゃというておられる、ね。だから極楽の中にも修行はずっとあるんだと、ね、身に徳を受ければ心配はないと、その心配はないという、いうなら大安心でしょうね、仏教の言葉でいうと大安心でしょう。
ね、でそういう安心の大みかげを頂いておっても、やはり油断をすると、後へもどるぞとこう言われる。
そこでその私共はその安心を目指させてもらうわけですけれど、私どもが言うておる安心というのは、本当のものじゃ無い、ね、まあ、汽車に乗っておるようなもので、ね、安心しておるからこそ、汽車の中で眠っても行かれる。
楽しゅう旅行がでける。
この汽車がいつどこで脱線するだろうかと、思うたら不安でたまらんのだけれども、ね、いわば、こういう立派な軌道がある、その上を走っておる汽車である。
しかもちゃんと、腕の達者な運転手が、その機関車を操っておる。 
だから安心だと、というのはだから、ほんとの安心じゃ無いですね、なぜかというといつ脱線するか分からないち、ですからそれは、安心ではなくていわるゆる安全感なんだ、ね、安全感。
私共の一生というものを、長い一つの橋にたとえるとすると、ね、信心のあるものは、その長い橋に、こう、手すりがかかっとるようなもんじゃと言われた。
ね、手すりがかかっておる橋を渡っておるようなもの。
ね、ですからですね、ですから、それは例えば、長い橋であり、狭い橋であっても安心してその、その橋を渡っていけれる、けどもそれは本当の安心じゃない。それは安全感なんだ。
ね、安全感があるから、そこを無事に通り終えることができるんだと。
たとえていうと、この畳一枚なら畳一枚の長さの橋をです、手すりも何もかかっていない橋をです、私共はこれをもし渡るとするか、途中になったらこうこう揺れて来るだろう、つり橋なら、そしたら不安になってくる、心配になってくる、足がガタガタ震うて来る、だからそこに落ち込まなければならない、結果になってくる。
ね、ところが信心をさせて頂いておると、信心という手すりがある、いや神様が付いてござる、いよいよん時には親先生がござるから、と言ったようなその安心というのは、実をいうたらホントの安心じゃないのだと。
安心感なんだと、いわゆる安全感なんだと。
だからその安全感を安心と間違えておるような場合もあるのです。
ね、私どもはそういう、たとえば素晴らしい、または、そういう難しいその難しい、そういう、たとえば、ことに取り組んでおるわけです。
ですから、これで良いということはやっぱりありえない。
昨日、控で久富繁雄さんとお話しておったら、その前の日に、おばあさんのご法事で、奥さんの里に行っておられる。お寺のお坊さんが、先生どんが来とるけれど、だーれん、後ろで拝むものもない。
今の仏教てのは、あんなものらしいですよね。
もう、お経は坊さんが一人挙げらっしゃる、もう長々挙げなさるけん、もうその間はもう、皆息子達も孫と達も来とるけれども、寝たり転がりしとる、でそんなことじゃ相済まん、しっかりぼんさまが、一生懸命拝みござるから、やっぱりその、ぼんさんに任せておるだけじゃいかん、というても、若いもの、他の信心のない者は分からんけれども、まぁ、私は後ろから、長々としたそのお経を聞かせて頂きながらですね、まあ、思うたとこういろいろ言うておられます。
その話をいろいろ、なるほど信心のあるものは、そういうところが有り難いな、とこう思うんですが、なんとか、私はあれは死んだときだけかと思うたら、白骨の御文様ていうのがありますね。
明日に、頭、こうがん空しく変じて、というなんかね、もう聞いただけで涙が流れるような、その、ね、夕べにはもう白骨になってしまっておる、人間の空しさ、いわゆる仏教でいう無常観、が詠ってある、そういう、空しい、それが人間なんだと、ね、だから、常日頃に仏様の道を体得して、おかなければならないということが書いてある。
それを昨日聞かせて頂いて、はあ、私の・・?私も好きなんです。
あの、私の麦生の母の父ですね、爺にいつもせがんで、それを読んでもらう、こりゃもう死んだときしか読まんとに、そいでもそれを私が読んでくれ読んでくれていうんですよ。
この人ばっかりは、もう子供ん癖に、つうてから、いよりましたけれど、やっぱ読んでくれた。
ね、ほんとにあの心が静まり、心が清まり、同時に何かほんとに物悲しいまでに、その、あれをきらせていただいとると、その気になるもんですけれども、ほんとにもう、思うことは、私どもがいつ、いわゆる、その無常の風が吹いてきて、お国替えのおかげを頂いても、ね、そこに私は、この安心してあの世に行けれるという、ね、だから、私共は信心させて頂いてですね、まぁ、そこまでぐらいな安心はどうか極めておきたいなとおもうんです。
ね、いわゆるその死生観の確立です。ね、死んだからというて神のお世話にならんわけにはいくまいが、死に際にもお願いをせよと仰る。
死に際にも、願えれる、これから、いわばあの世に誕生いたします、あの世でもどうぞよろしゅうと、もうこの世で、どうぞ、もう今私は息が切れようとしよりますけん、息がきれんごとお願いします、という願いじゃないのです。
死に際にも願うということはね、いわゆる、そのあの世でもまたどうぞよろしゅうという、私は願だとこう思う。
その願い・・?ゆとりというね、いわゆる死生の安心、せっかく信心させて頂くのですから、そこんところを一つ頂きたいなあーと、それはまあ、いろいろにですね、死ぬるということはどういうことだろうかと。
教祖様はそれに対して、ね、眠っていくようなもんじゃと仰る。
私どもが眠る、そしてそのままもし目が覚めなかった時が、いわばもう、死んだときである。
ね、おかげで目が覚めたから、今日も生のおかげをいただいておるということに、いわば、
ほっと気づかせてもらうというような、私は感情というかね、そういうものが、だんだん育って行かなきゃいけない。
目が覚めた瞬間、はあ、生きて居ったと、そこに私は、そこから生の喜びというのが、生まれてくる。
ね、そこで私は思うんですけれども、なら、今日ここに、同じ字で、同じ言葉を持って、安心ということを使っておられます。
九里半登っても、安心してはならんぞと仰った。
ね、または向こうヘ降りたら安心じゃとこう仰った。
それを私共は、九里半、まだ、八里か七里も、いわば半分しかいっとらんでもです、私どもが安心しておるような事がありはしないか。
その安心は良く検討してみると、それは安心ではなくて、安全感である。それをいよいよ、ま、安心の行くおかげを頂くために、身に徳を受ければ心配はないと仰る、身に徳を受ける修行を、本気でさしてもろうて、身に徳を受けて、安心、これは、落ちるこの身は十八願の、うちと思えば危なげはないという、それも安心だけれども、金光教的にいうとです、それでは詰まらん、やはり、せっかく極楽におらせていただいておるなら、その極楽をいただき続けねばならんところに、一生が修行じゃということになり、気を緩めてはならない、気を緩めると、も、この様な有り難いおかげの中にあって勿体無い、勿体無いといいながら、気を緩めると、そこからまたまっさかさまに地獄に落ちていかなければならないといったようなことにまでなりかねない。
それでは、つまらない話だと。
ね、なるほどその落ちるその所も、そこは神の懐といえば、懐といえるんだけれども、そんなに簡単に割り切るところに、人間だからといったような横着な心が出るのです。
ね、どうせおかげを落としても、そこもやはり神様の御悲願のうちだから、というようなものが暗にあるから、横着かである。ね、なるほど地獄へまた落ちても、また這い上がって行けれるという自信があるということは、有り難いけれども、ね、そこんところを教祖は、落ちては詰まらんというところに一生が修行じゃというふうに教えておられます。
また後戻りをしては詰まらんじゃ無いかというふうに、こっから私は今日は頂いた。
ね、まぁ、その安心のいろいろですけれども、だからせめて、例えば、せめてというか、私共だから、願いとするところは、死生の安心、ね、仏教的にはいつお迎えが来てもです、ね、私共はいつお国替えのおかげを頂くということになってもです、そこには生前の御礼を申し上げ、そしてあの世に誕生してくことを願わせて頂ける一つのゆとりというものをです、頂きたい、
ね、確かに人間というものは、ね、明日にこうがんであり、夕べに白骨なる、そういうひとつの定めというかね、そういう中に私共はあるのですから、ね、無常の風が、いつ吹いてくるか分からん、ね、だからそれを聞いてたとえば居るだけでも、心がまあ、沈むというか、空しゅうなってくるけれどもです、ね、私どもが日頃に教えを頂き、日頃に本当な事をが、段々分かっていくことになってです、ね、死んだからと言うて神のお世話にならんわけにはいくまいがと、死んだからとて、神様のおかげを受けなければならんのだから、やはり、この世で神様のおかげを受けて、あの世でも、ね、ちょうど眠るようなものであって、ね、ねむっとる中とても、神様のおかげをいただき続けていけるという、ね、確信が持てるところに死生の安心ていうものが生まれてくる。
だから、いつでも、まあ、いうならば、ままよと、ままよとは死んでもままよのことぞ、とこう仰るが、そういうまぁ、大変厳しいことですけれども、そういうけいこがいつもなされておかねばならない。
ね、そこに、ね、充分の徳を受けようと思えばと仰るその徳も受けられる、またそこに極楽を見、または感じることもできる。
まま世のその先が、そこで、そこを目指しておりますけれども、せめてここまでは頂いておきたい、これは私の安心ではなくても、神様が安らいで下さる、神様が、安心して下さるというところ、そこまでは頂いておきたい。
ね、そういう神様が安心して下さるような、信心を頂きたい、とはどういうような事かと、ね、私は教えを頂く楽しみ、喜び、教えを頂く喜び、ね、または楽しみそれをね、行ずる喜び、行ずる楽しみ、ね、私はここんところが確立した時です、神様が、まぁいうならあの氏子ももう、安心じゃというて下さるんじゃなかろうかと思う、思うて下さるじゃなかろうかと思う。
ね、その神様の安心がです、私共に返って、完全に返った時に、それは大安心であろう、いわゆる、安心立命であろう。
それがほんとうの安心であろう、というふうに私は今日は思うのです。
ね、教えを頂くということの楽しさ、または、有り難さ、ね、教えを頂く事の喜び、だからここまではね、たいがいの人が、あの、昨日も、久留米のまつえい会ですね、久留米地区の、の、ま研修会がここのお教会でございました。
そいでま、合楽の方達が異口同音に発表されることはです、とにかく合楽では、毎朝のご祈念にお参りをさせて頂いて、ね、ご理解を頂くと、教えを頂くということが、もうこれが楽しみだと、いうふうに言うておられます。
ところが他所の教会にはそれがないらしい、お広前参って一生懸命ご祈念はするけれども、その後に、なるほどご理解があってもです、それをそのそういう、もう、こよなきまでの楽しみと高めていないのである。
昨日、佐田さんのおばあちゃんが、発表しておられることもそうであった。
ほかに何にもない。ただその楽しみが、まぁ、もうこの年になりますけれども、合楽通いが楽しいんだとこう、ね。
それが例えば朝の眠さといったようなものは問題じゃ無いほどに、楽しいんだというふうにいっておられます。
それは佐田さんだけじゃなくて、もう恐らくは合楽の信心をいただいとる人達は、そうじゃなかろうかとこう思うです。
いわゆるご理解の魅力なんです。
ご理解を頂くということの楽しさ、ね、または、有り難さ、また頂くその喜びというものがです、確かにそうだと、だからそこまでは、私共もいただいておるんでございます、これは私自身もそうです。
今日はどげな御理解を頂くじゃろうかと思うて、もう、いうなら、大げさにいうなら、胸ワクワクする思いで、今日はどげな御理解と会うじゃろうかと思うて、楽しんででおります。
ここへ座るとき、ほいでこうやって説いておりますけれども、なら、これは私が頭の中で練ってこう話すんじゃなくて、その話は私自身もやっぱ、いただいておるわけなんです。
だからそのいただいておるそのお話しというものはです、ね、今度は行じていく楽しみ、行じていく喜び、ね、そういう私は、意欲が燃えてくるときです、神様は安心して下さると思うですね。
なぜかというと、もうある意味合いにおいてもう、おかげの落としようがありませんもん。
毎朝お参りをして、ご理解を頂くことが有り難い、しかもそれをまた今日一日の、生活の原動力ともして行こう、それを今日一日の支えにして、それを行じていこう、行じることの楽しみ、行じることの喜びというものが、でけたときです、神様が、安心して下さる、神様が喜んで下さる、その喜びが、私共に返ってくる。
その安心が私共に返ってくる。
ほんとの安心立命てのはまだもっと難しいでしょうけれどもです、ね、ま、せめてそこまでは、頂きたい。
今日はその安心、様々な安心のね、申しました中、そこんところまでは、一つ頂きたい。
という私は、願いを起こすというか、または、そういう姿勢を持って、信心をさせて頂くならばです、ね、いわゆる神徳を受ければ心配はないと仰る、神徳もまた、そういう信心から頂けて来るんだと思います。
ね、そこにです、いわば、心配はないというおかげが、または、そういう心配はないというおかげの世界に住むことがでける。
何でも、何をでもその、やはりせめてもというところが大事なんだ。
ね、せっかく、合楽に通わせて頂いておるのであるから、ね、せっかくあのような御教えを頂くのであるから、せめてこの一言ぐらいは、今日本気でそれに取り組ませていただこうと、もうせめてこのひとことぐらいは、とそれが一日を支え、一日の支えになり、それが積もり積もってです、ね、神さまのご安心ともなり、神様の喜びともなり、その神様のご安心下さるそれが、お喜び下さるそれが、私共に返ってくる。
それが信心の喜びであり、信心から得られるところの安心だ。
せめてそこまでは、頂きたい、と今日私思わせて頂いて、ね、同じ安心と表現しておられる、いわば安心のおかげを頂くためにというのに、安心してはならんぞと仰ったり、ね、ところが私共の場合は安心してはならんぞと仰るところで、安心しておったりするような事がありゃしないか、ね、いわゆる、いわゆるややほんとというかね、本当の安心から、またほんとの安心をです、追求していくというところに、私は死生観ね、の確立とね、といったような大変な、これは信心によらなければ頂けない、そういう悟りの境地も、また、開けてくるようなおかげがいただけるとこう思うのです。
ね、どうぞ一つ、安心のおかげを目指しての信心、それには教えを頂く喜び、ね、だから、その三代吉さんのお話しを頂いとりますとですね、あの親鸞上人様のそのもうとにかく、お話を頂くということだけが有り難いんだと、だから、おかげを落としたっちゃ、そこも十八願の中だから、言っておられるでしょう。
そこに、ますこしこの、仏教の不義な点とでも申しましょうかね、を感じます。
お道の信心はね、聞く喜び、楽しみもあるが、それを行ずる、たとえば、家業の行の上に表わしていく、私は楽しみと喜びが伴わなければ、いけない。
そこに、ま、いよいよ完璧に近い安心というものが、段々開けてくるんだと思うのですよね。どうぞ。